みかさんとの馴れ初めについての話をTwitterで連投したので、再掲。

 みかさんと出会ったのはパソコン通信ニフティサーブ。ネット以前。電話につないだパソコン。テキストだけでやりとり。でも考えてみりゃ掲示板に書込み、チャットができ、メール送受信もできた。しっかりSNSだった。ぼくもまだ結婚してた。みかさんも結婚してた。オフ会で初めて、互いの顔を見た。

 糸井重里が書いてた。ある大学教授がオンラインで、ある人と意気投合した。素晴らしい洞察。素晴らしい意見。一度会いたい。彼は「飲みに行きませんか?」とメール。相手は渋い顔。乗り気じゃない。どうしたのかと思うと「実はぼく、小学生なんです」。ネットは社会的条件をはぎ、魂をむき出しにする。

 当時は「パソ婚」という言葉があった。パソコン通信で意気投合してしまうと、この社会的現実の時間とは別の、浦島太郎が竜宮城で体験したのに近い、あり得ない速度の時間を体験する。現実世界での、デートを重ね、食事し、セックスし、やっぱりこの人と思う。そんな手順を、純粋な魂同士はかっ飛ばす。

 最初、徹夜でみかさんとチャットした。掲示板。ぼくの書き込みに対する彼女のコメントで、ぼくはすごく元気になれた。離婚直後。すごく落ちていた。救われた。だから、そのお礼が言いたかった。そしたら、徹夜になってしまった。その後、「あなたのことが忘れられない」と、みかさんからメールが来た。

 それから毎晩、みかさんとチャットした。メールのやりとりが増えた。そして、大げさなほど思い入れたっぷりな、すごくロマンチックな文章を送りあった。それから電話で話した。Skypeなどなかった。毎日、何時間も話した。起きてる時間は、全部話してた。今と同じで、仕事など大してしてなかった。

 何が起きてるかわからなかった。怖かった。とてつもないエネルギーがゴウゴウ。「何十年後か、いつか一緒になりたいね」と話した。「年末までには、一緒になれたらいいね」と話した。実際はチャットから一ヶ月。みかさんは1歳と3歳、2人の女の子を連れ、医者の旦那を振り切り、ぼくのところに来た。

 チャットから、みかさんがぼくのところに来るまで一ヶ月。子供の世話で、みかさんには自由時間がなかった。それで、子連れで買い物に柏まで来て、その隙間で30分くらい会うとか。きもの教室の帰りの電車で会うとか。実際にリアルで会えた回数は8回。男女交際としては、手をつなぐところまで進んだ。

 もう16年も前の話だ。ぼくは34歳だった。まだ、セラピーに通ってた。回復途中のクライエントだった。プロ家庭教師を始めたばかりだった。月収は約10万円だった。みかさんは30歳だった。3歳の女の子は、今度、成人式を迎える。ぼくらはストレスの限界を体験し、離婚して、予想外にも復縁した。

 公園の側に車を停め、抱き合ってた。カーステレオからはオフコースが流れてた。その曲は、当時流行していた恋愛ドラマを思い出させた。割と好きなドラマだった。でも、今、自分たちが体験していることに比べたら、どんなできのいい恋愛ドラマも薄っぺらで、ちゃちで、気の抜けたサイダーみたいだった。

朝がカーテンの隙間から漏れてくる。早朝6時。寝なきゃ。

 今日も眠れないまま、朝まで起きてるなあ。

 窓から白い光が入って来る。YouTubeからマイルス・デイビスが流れてる。深夜に聴くと、なぜだかマイルスはとても優しく、ぼくの抱えているものを全て受け止めてくれているような気がする。だからつい、マイルスをかける。
 
 夜眠れないのは、やり残しがあるからなんだって。充実感が足らないから、満たされたくて、何かを探し続けてしまう。本を読む。アルコールを摂取する。音楽を聴く。そして結局、何も見つけられないまま、今日も朝になってる。何十年間も、もちろん例外はあるにせよ、毎日これを繰り返してた気がする。同じとこでグルグル回ってる。
 
 毎日、幸せについて考える。果たして「幸せ」とはなんだろう?どうすれば「幸せ」が感じられる?ぼくが本当に欲しいのは、「幸せ」なんだろうか?
 
 こんな風に、毎日「幸せ」について考え続けてしまうような人生を送っているのは、よほど不毛な毎日を生きている証拠だろう。水泳選手は、泳いでる最中に「果たして水泳とは何か?」なんて、決して考えたりしない。そんな余力があったら、まずは泳ぐだろう。
 
 
 ☆
 
 昨日、みかさんとカラオケに行った。みかさんというのは、一度離婚して、それからよりを戻した、ぼくのパートナーだ。
 
 ぼくは初期のサザンを唄っていた。ぼくは初期のサザンがとても好きだ。男の情けなさやダメダメさが、甘く、切なく、ほろ苦く唄われている。男にとってのセックスって、なんてバカバカしいほどダメダメなんだろう。
 
 唄っているうちにそこと同調してくる。壊れそうな気持ちになってくる。桑田佳祐が他人の気がしない。ぼくはちっぽけで、惨めで、情けなく、やり切れなく、そしてただひたすら女の子を求めている。深夜のオス猫がメス猫を求め、一晩中惨めな鳴き声を上げるように。
 
 ぼくは唄いながら、彼女にくっつく。ちっちゃくなる。彼女の二の腕に額をくっつける。温かい。柔らかい。彼女の匂いがする。まるで小さな子どもに戻ったようだ。ぼくは、もし傍から誰かが見ていたならば、どう見てもみっともなく、恥ずかしく、バツが悪いほど、ただの甘えっ子になっている。だが、ドアの締まった深夜のカラオケルーム。誰も見る人なんかいない。
 
 「好きだよ」と言う。「愛してる」と言う。何度も繰り返す。単語の意味が本当にわかっているのか、自分でも疑問だ。猫がにゃあにゃあ鳴いているようなものだ。でも、少しでも、彼女に近づけた気がする。微かに、温かみが増す。唄い続ける。あっという間に、3時間が経つ。
 
 深夜の駐輪場に自転車を取りに行く。料金はぼくは200円。彼女も200円。夏の匂いがする。今年も暑くなりそうだ。
 
 いつものように自転車で、彼女の家まで彼女を送っていく。国道を渡り、坂道を降りる。つまらない冗談を言う。笑う。共通の知人のうわさ話をする。未来の夢に関して語る。高校生みたいだ。
 
 彼女を家に送り届け、ぼくは一人自転車を転がして、自分の部屋に戻った。眠りたくない。まだ、何かやっていたい。何かが足らない。
 

  ☆   


 そして今、朝の6時過ぎ。寝なきゃ。
 
  

自己紹介

 このブログを、今までぼくのことを全く知らなかった人が読むことを想像してみた。微かな恐ろしさ。社会生活が苦手で、できれば、可能な限り引きこもっていたい自分がいる。

 
 51歳、男子。右利き。辰年生まれ。血液型0型。離婚は2度している。今は、離婚したパートナーとよりを戻し、籍を入れず、別居したまま仲良くしている。このまま末永く幸せに暮らせたらいいなと思う。
 
 職業は心理療法のようなもの。なぜ「ようなもの」がつくかというと、自分でも、自分のしていることが果たして心理療法であるのか、よくわからないところが多いからだ。
 
 資格は一切持ってない。見よう見まねの自己流だ。自己流。自分流とか、オレ流というほど立派なものじゃない。「アドバイスはしない」というのがこの世界の基本原則だが、ぼくは結構、平気でアドバイスもする。情報や考え方を教えることも多い。単に雑談しているようにしか見えない時も多いだろう。

 
 その場に応じて、臨機応変、自分の出せるカードは何でも出す。お客様が、自分の払った料金に値すると思える体験ができ、「この料金ならまた来たい」と思えたなら、なんでもいいと思っている。顧客満足。時間とサービスを売って生活してるだけだ。学会や団体に所属していたら、問題視されるかもしれない。
 
 だが幸いなことに、ぼくはありとあらゆる集団、団体に一切所属していない。何をやろうが、何を言おうが、自己責任が取れる限り自由だ。重大な失敗をやらかし、野垂れ死んだとして、ぼくの自由。かつて、写真家・藤原新也は「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」と語った。
 
 「自己責任」という言葉は好きだ。清々しい響きがある。自分で責任を取るから、何をやってもいいんだと思う。本当にそう思う。
 


 きちんと診断されたことはないが、発達障害の傾向がある。昔、まだ世の中でADHDという言葉が今ほど知られてない頃、テレビで特集番組が組まれた。ぼくは見ていない。何人もの知り合いから「あれは、キミのことではないか?」と、言われた。アスペルガーの傾向もあると、何人かのカンセラーに言われた。学習障害の傾向もある。学校で座ったまま授業を受け、ノートをとり、内容を頭に入れることが、どうにも苦手だった。
 
 そういう意味ではとても傷つきながら、ひがみながら育った。自分は社会不適応の欠陥品だと思い込んでる。そんな歪みが、今のぼくの性格やものの捉え方、考え方に大きな影響を残している。でも、それがぼくなのだ。それでいいとしか、言い様がない。
 
 「何でもいい」、「どうでもいい」が口ぐせ。余程のことがない限り、実際問題、たいがいのことは何でもいいし、どうでもいいのだと思っている。
 
 今日も生きている。


 
  

はじめに

 言葉なんて信じてなかった。語っても語っても語れない何かが残ってしまう。一番肝心なところは言葉から漏れてしまう。言葉はいつも不完全で、不正確で、不器用だ。

 

 コミュニケーションなんて信じていなかった。誰かに本当のことが伝わるなんてありえない奇跡、あるいはお伽話、夢物語の類だと思っていた。変なものを信じたり、期待して傷つくのも嫌だと思っていた。

 

 でも、どれだけ苦い気持ちを味わい尽くしたとしても、ぼくは語ることを止めたりしなかった。どれだけ諦めようと頑張っても、結局のところわかってもらいたいという気持ちは消えなかった。わかってくれる誰かを、一日二十四時間、心のどこかで求め続けていた。人間は信じていない程度の理由で、深いところで求めていることを求めることを止めたりしないのだと思う。

 

 無冠の帝王、ベネズエラの戦慄、飢えた黒豹、等々。多くの異名を持つボクサー、カーロス・リベラは、受けたパンチで後頭葉にヒビが入って廃人となり、まともに歩けないほどよれよれになったが、ボクシングだけは忘れなかった。もしぼくがパンチドランカーかボケ老人になったとしても、深夜の上野駅で壁に向かってしゃべり続ける酔っぱらいのおじさんのように、一人で語り続けているのではないか?

 

 「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」というタイトルの詩集を出したのは谷川俊太郎だ。大学生の頃、ぼくは彼の詩集を繰り返し読んでいた。ぼくは今年の4月で51歳になった。カレーの大盛りを頼むのがきつくなった。髪の毛の半分は白くなっている。まだ頭に多少なりとものまともさが残っている今のうちに、ぼくも誰でもない誰かに向かって、何かを語り始めてみようと思う。